エベレスト街道トレッキング カラパタール(標高5,450m)
思い出の山旅 その2 『40周年記念誌道しるべ』の続きです 猪狩晃一
エベレスト街道トレッキングカラパタール(標高5,450m)へ
(徒歩片道60km、標高差2,893m、往復14日間)
首都カトマンズから小型飛行機で登山口のルクラ(2,652m)へ、14日間山小屋泊の自炊、登山者7人、ポーター8人、総勢15人のキャラバン隊『カラパタール』目指し歩く、歩くの山旅 まるで真上を見上げる様な標高8000m級(6峰)の絶景ヒマラヤの山なみ、1日の徒歩は高山病順応の体ならし含め、5~7時間、荷物お任せの大名山旅。酸素1/2、高山病の恐怖、そして疲労、マスクが真黒の登山道のホコリ(風呂、シャワーなし、洗濯なし)との戦いでもあった。
【カラパタール頂上からの眺望エベレスト(中央奥)、ローツェ(右8,516m)】
ツア名 :『エベレスト大展望 カラパタール登頂20日間』 2007年11月
【憧れのホテル・エベレスト・ビューに泊まる】主催ヒマラヤ観光開発
(ホテルのオーナーであり、ヒマラヤのドン・キホーテ:宮原巍の話はホ
テル建設の話とともに後半に記載しました)
【エベレスト街道コース】
季節は乾季、晴天が続く中、”驚くなかれ”8,000mのヒマラヤの名だたる名峰、
白化 粧 のその山なみの風景は途切れることなく14日続く、まさに山旅の醍醐味
では ない でしょうか。これはその記録の写真集です。
【カラパタールとは】エベレスト望む独立峰で360度のパノラマの絶景地であエベレス
ト登頂の ベースキャンプに隣接する。登山道は積雪はなく、危険な場所もなく、登
山道を ひたすら歩く長丁場の体力勝負。
【メンバーの構成】登山者男5人、ガイド1人、サーダー(現地リーダー)、シ
ェルパ2人(登山者のサポート)、コック2人、ポーター3人(荷物運び)計14
人男のみ、その他ゾッキョ(ヤクと牝牛のかけ合せ)が3頭が荷物運び加わった。
*ナムチェ、タンポチェまでの登山客は多かったが、カラパタール登頂の登山
客は意外と少なく、日本人登山者に合ったのはアミューズのツアで下山組9人
のみ。日本は長期休暇の難しさからか、ほとんどがリタイア組と思われる。
【気候】ネパールは10月から5月までは乾季にあたり、雨は降らず気候は安定して
おり、日中は半袖、夜は氷点下3度位まで冷え込む、乾燥は半端ではなく、
埃はひどくマスクは1・2時間で真っ黒状態、メガネをかけるが自分の息で曇
り、対応のしようはなかった。帰って来て洗濯2回位では落ちなかった。
雨季は高山直物は多いが虫類なども多く登山客は少ないようである。
【宿・食事】山小屋は6畳程度の2人部屋造り付けけベット。寝る時湯たんぼが用
意された。山小屋でも食事は出しているが我々のツアは食事担当のコックが食材
を持参し、料理を作ってくれた。(おいしかった記憶はない)
朝食:味のないおかゆ、卵料理、大根・ニンジン等の野菜、トースト(ジヤ
ム、はちみつ)、紅茶、コーヒー
昼食:サンドウィッチ、魚の缶詰、サラダ、紅茶、コーヒー
夕食:ご飯、野菜炒め、カレー、桃等のデザート、紅茶、コーヒー
* ディンポチェ(4,040m)で禁酒令出された。
【便所】山小屋の外のバラック小屋、ドアを手で押さえながら用をたす、そんな感
じ・水かめが埋めてあり、その上にもみ殻、枯葉が敷いて、2枚の板を架け
て、またいで事をなす。昔の田舎や古い山小屋を思い出す。
【高山病対策】カラパタールの頂上は酸素量は約半分(エベレスト1/3)
ツア会社の勧めで『三浦雄一郎の低酸素室』の体験をした。
低酸素室で運動(自転車漕ぎ)をし、標高6,000mの酸素環境をシミレーション
をする。2回ほど体験したが問題なかった。高山病は体力ではなく体質とのこ
と。その対策は高度順応と水を多く飲むこと(4から5L程度)
登山中はパルスキオキシメーターで酸素量60%以上を定期的に確認しながら
歩く。 富士山は頂上には滞在しないので参考にし難い。
今回はツア客は男7人で内登頂5人、脱落2人+ポータ1人)。
平均的にも3割から4割は脱落者が出るようです。脱落者はポーター付き添われ
即下山、場合によってはヘリを呼ぶことになる。(今回1人は保険でヘリを呼
ん)日目ディンボチェ(4,040m)を出発後全員下痢状態になり、うんち場探
すが樹木がないせいもあり、見渡しがよく困っているとシェルパが案内してく
れたのが大きな石の裏側、テッシュペーパーとうんちがいっぱい。通常
『うんち畑』呼ばれているとの事。
登頂前々日のロブチェ(4,930m)の山小屋で高山病で酸素吸入しながら苦し
んでいるところへ重大ニュースが飛び込んで来た『その上の山小屋ゴラクシェ
ブ(5,100m)で2日前に高山病で日本人とドイツ人が亡くなった』と云う話。
【カラパタール(右側)とゴーキョピーク(左側)のマップ】
参考:チベット側からのチオランマ(エベレスト)の全景(写真は他よりi引用:本旅と無関係)
【到着したカトマンズ空港でのトラブル】
2万円の陶替えをしたら1万5000円分ルピーが返ってきた、すなわち
5,000円分のおつりが誤魔化せられたことになるが事前にガイドから注意を
受けていたのでその場で確認をして難を逃れた。またカトマンズからルクラに行
く飛行機では荷物を運んだからと言って裏に呼出されチュップを請求された。
【1日目 "いざスタート" ルクラ(2,652m)からパクディン(2,652m)へ】
起床7時、出発8時、歩行は4時間 ともかくゆっくりペース、決して頑張な
い、14日間の長丁場、無理すれば後が持たなくなる。また絶景山並みを堪能して
もらいたいとの意図もある。
チョルデン(仏塔)はいたる所にあり、左側を通る。
【2日目パクディン(2,652m)~ナムチェ(3,440m)歩行6時間】
シェルパの里ナムチェ橋に巻きついたタルチョ(祈りの旗)
ナムチェの集落に到着
集落の中の路地は車がないことから狭く、商店街風になっており、LEKIのストックを2本7,000円で買ったがスチール製のまがい品であった。
【3日目ナムチェ(3,440m)で街道で1番大きな村:高度順応ため滞在】
気温がマイナス10度かなり冷え込む、上下の羽毛の防寒着を借りる。
標高8,000m級が5つが一望出来るシャンポチの丘(4,450m)から後方にエベレスト、ローツェ(8,516m)の山なみ、チョーオュー峰(8,152m)、カンチェンジュガ峰(8,586m)、マカルー峰(8,463m)、そしてアマダプラム(6779m)までが
一望出来る ”まさに圧巻”
最初に見えたエベレスト(左奥)、ローツェ(右端)
チョーオュー峰(8,152m)
カンチェンジュガ峰(8,586m)
何とも気になる山アマダプラム(6779m)乙女の峯
マカルー峰(8,463m)
露店市場、品物はほとんどが人の手でチベットからヒマラヤ山脈を越えてくる
お祭りの風景
【4日目 ナムチェ(3,440m) ~ タンボチェ(3,867m) 歩行6時間】
徳島の40代男性がここでリタイヤ、ヘリでポーター付き添いで下山、登山は初心者
で生き方を変えたいので会社を辞めてのチャレンジだったようでした。
高山病予防のため、お酒はこれより禁酒
こんな立派な寺院がある(中庭があり、かなり広い)資材運搬、今はヘリですね、
【5日目 タンボチェ(3,867m) ~ ディンポチェ(4,040m)歩行6時間】
学校 後方タムセルク峰(6,623m)
民家
【6日目ディンボチェ(4,040m) 高度順応のため滞在
チュクン川沿いの畑の中の民家の風景
【7日目 ディンボチェ(4,040m)~ ロブチェ(4,930m)歩行5時間】
タムセルク峰(6,623m)
【8日目 ロブチェ(4,930m)~ ゴラクシェッブ(5,100m)歩行4時間】
ここで1人高山病のためポーター付き添いで下山(これで棄権2人目)頂上まで
後 445m残念酸素ボンベイに助けれなんかもちこたえる。
元気のある人はもうひと頑張りベースキャンプを見学
【9日目 ”いざ” 頂上アタック
ゴラクシェッブ(5,100m)~カラパタール(5,545m)登頂 ~ ロプチェ
(4,930m) 歩行7時間】
顔をよく見てください。”色男” いやいや膨れ具合です。山の頂上でお菓子の袋が
パンパンになったことがあるでしょう。
頂上西側の眺望
頂上東側の眺望
【10日目ロプチェ(4,930m)~ ペレチェ 歩行5時間】
【11日目】カンデカ峰(標高6,700m)右端
真っ赤に染まったエベレスト(左奥)とローツェ(右)
【12日目 デボチェ ~ ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)泊】
3年前の当時、ヒマラヤ観光開発(株)のエベレスト街道のツアは『憧れのホテル・エベレストビューに泊まる』をキャッチフレーズにしていました。
私どものパーティも下山途中、600m登り返しで寄り道をしての宿泊した。
外観はシティホテル並でそれなりに自然との調和は配慮されてはいるがヒマラヤの山奥には全く見かけない近代的な建物に驚らかせられました。
そしてその絶景は評判通り、エベレストをはじめローツェ、アダムプラム等ヒマラヤの名峰のパノラマが眼前に迫って来るすごい迫力。
ただ内部もシティホテル並のではあるが燃料事情により、エアコンは可動せづ、石油ストーブ、バスルームはお湯は出ず、バケツのお湯で体を拭く程度でした。(オーナー及び設計者の計画と現実のギャップには苦笑い)
石油ストーブだけの寒い大食堂は残念ながら期待はずれでしたがここで幸運にも、このホテルの設計者の遺族とその関係者の日本人グループに会い思い出話に入れてもらい楽しい時間でした。
設計者はオーナーの宮原巍氏(追って記載)とは若き日の登山仲間との事でした。
女性のお孫さんや大学の後輩等を含めた総勢10人で『弔い記念登山』とて来たとの事でした。この人たちにとって48年前に標高3880mのヒマラヤの山奥にヘリポート付のホテル建設の功績は大きな自慢の評価なのでしょう。
資材を人力で運搬し建設したと言う。
大食堂の窓越しにエベレスト(中央)、アマダプラム(右)の眺望(写真他より引用)
【13日目ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)~ バクディン】
【14日目バクディン(2,652m)~ルクラ到着 】
無事帰還を祝ってのサーダー(現地人のリーダー)との記念写真(満足の笑顔)
下山後ルクラで全員で打ち上げパーティ(ロッジの部屋を貸し切って)、食べ物、登山用具等の残り物をシェルパ、ポーター等にプレゼント、歌あり、酒あり、見よう見まねの現地の踊り、ドンチャン騒ぎ、会費5,000ルピー(1万円)
【エベレストにまつわる3人の化け物の話】
年末本文の編集をしている時偶然にも『南谷真鈴』出演のテレビ番組をみました。
今年の5月『日本人女性の最年少エベレスト登頂』、7大陸最高峰制覇の偉業、早稲田大学の2年生19歳、少々大柄であるがなかなかの可愛い子ちゃん、彼女曰く『私はプロの登山家ではありません、趣味の延長上で登っています』そこには『頑張り感、誇示感、生活感、悲壮感』等感じさせない飄々とした話しぶり、もう1人は『80歳でエベレスト登頂の偉業』成功した、三浦雄一郎の話。御神輿にかつがれた様な登頂、頂上からヘリでの下山等、あれでも登山家と登山家野口健に揶揄されながらの偉業。いずれにしろ凄い、化け物2人ですね。
そういえばこのカラパタール山行の時、三浦雄一郎が75歳エベレスト登頂チャレンジや、北京オリンピックの聖火がネパールからエベレストを超えチベットへ運ぶ計画が話題になっていました。
『3人目の化け物はこのトレッキングで会った宮原巍(たかし)の話』
下記の文章は図書紹介で5年前にやまびこに記載されたものを1部編集しました。
ヒマラヤのドン・キホーテ 著者 根深誠
ネパール人になった日本人・宮原巍(たかし)の挑戦
『カラパタールトレッキング』下山後ネパールの主都カトマンズの『ホテルヒマラヤ』のロビーで仲間と雑談をしている時にサンダル履きで、ふだん着の日本人らしき1人の老人が話しかけてきた、その人がこのホテルのオーナーであり、また『ホテル・エベレスト・ビュー』『ヒマラヤ観光開発(株)』のオーナーでもある、この物語の主人公の宮原巍であった。
世界一の標高地で、エベレストの絶景地3,880mに建つ『ホテル・エベレスト・ュー』建設の話、今ではホテルには自力では行けず馬で行く話(ルクラから往復4日)、還暦でエベレスト登頂に挑んだ話、そしてネパールに帰化して、国会議員に挑戦すると言う話を熱く語ってくれた。
ダークダックスの『山男の唄』で知られている第一次登山ブームの頃、日大の山岳部に所属し、山にのめり込み、そしてヒマラヤに憧れ、夢叶え30歳代でネパールに永住することになる。そして今度はネパールに帰化して、国会議員に立候補、落選。ましてや74歳の今にして今後も、国会議員に立候補は続けると云う。
山に憑かれた破天荒人生、まさにドン・キホーテの世界でしょう。
この本は言うなれば『宮原巍の自叙伝』であるが何故か山岳作家の根深誠が著者である。さすがにプロの作家であり、インタービュー形式なので結構読み易いです。
(白井市立図書館にはありました)
今の宮原巍の近況
81歳になった今も健在でエベレスト・ビュー、カトマンズのホテルに続いてワールド航空サービスの支援を受け3つ目のホテル『ホテル・アンナプルナ・ビュー』を建設中で地震で遅れ現在内装工事中。アンナプルナ連峰、マナスル等の絶景地との事。
【参考:エベレスト街道のトレッキングコースのマップ】