2017年 公民館祭ふれあい祭り
2017年 公民館ふれあいまつり
2月25日(土)~26日(日)
四元一成
今回の“ふれあいまつり”は東葛山の会創立40周年記念事業の一環として開催しました。看板はどうしようかと考えました。どうせやるなら派手にやろうと!
「祝創立40周年」「東葛山の会」と看板を作りました。また折角だから40周年記念事業の展示を考えました。
記念誌“みちしるべ”と会報誌の“やまびこ”の展示を行いました。“みちしるべ”は20周年・25周年・30周年・35周年と未完の40周年は表紙だけ展示しました。
会報誌の第1号は会長から40年振りに披露してもらいました。40年の歴史の重みを感じました。50号前後、100号前後も展示しました。(最新の2月号は471号です)
40周年記念事業のテーマが三つも有り、写真等の展示に大変手間がかかりました。
その分毎月の山行写真は減ってしまいましたが。
- ニュージーランドトレッキングは石塚さんに担当してもらいました。
- 八ヶ岳集中登山は清水さんが担当。清水さんは公民館まつりに初参加でしたので慣れなくて戸惑っていましたが、猪狩さんの協力で完成しました。
- 房総の山50選は菅原さんが担当しました。
金曜日の設営は順調に進みましたが、菅原さんが午前中は都合悪く、房総の山50選の設営が夕方になりましたが、4-5人が集まり6時頃までに協力して完成できました。
今回は、村上さんの提案で写真の収集を早めに始めました。登山が終わると担当者・参加者に直ぐに、メールで転送してもらうように依頼したことで今までより写真の収集が楽になりました。
今年も、ワカメの販売をすることにしました。しかも2日間にしました。販売要員の確保が少し大変でした。でも、皆さんに協力していただき完売できました。有難うございました。
最後に、木村さんが途中迄しか参加出来ず残念ではありましたが、皆さんに協力していただき、穴埋めが出来ました。
収入200×600円=120,000円 の売り上げがありました。
東葛山の会の参加者 49人 延べ人数 64人
公民館の来場者数2月25日 1502人 2月26日1696人 計3198人
26年度3178人
27年度3328人
ニュージーランドトレッキング
ニュージーランド大自然満喫ウォーク万歳! (11/22~12/5)
フッカー湖に映るマウントクック
『東葛山の会創立40周年記念海外登山』として、季節が反対の南半球の島国『ニュージーランド(南島・北島)』のトレッキングを、11月22日(火)~12月5日(月)の14日間で仲間と一緒に楽しんできました。
<1>下調べから日程・参加者決定そして現地へ…
先ずは、2015年12月に、現地そして国内の旅行会社にメールで問い合わせを始めました。併行して、ガイドブックを購入し、トレッキング・コース等を調べました。
時季については、11月末からであれば、『ミルフォード・トラック』のガイド付きウォークの費用が、12月に入ってからよりも若干安価であり、トレッキングするにしても、高山植物を愛でるにしても良さそうだ…と、判断しました。
また、せっかく行くのであれば、その他のコースも歩いてみたいと考え、『マウント・クック国立公園のトレッキング』と北島の『トンガリロ・アルパイン・クロッシング』も加え、日程を『14日間』としました。
飛行機予約の制約から、国内の旅行会社ルートで手配することにし、旅行費用の見積もりとお薦めのコースを提案してもらいました。
参加希望者に日程案を提示し、より多くの会員が参加できる日程を決め、旅行会社とメールで交渉を進める中、私の考えを充分に反映した日程で、旅行費用が他社よりリーズナブルであった『株式会社ウエブトラベル』に、3月初めに手配をお願いしました。
その後、何度となく、具体的な日程内容(食事・観光含む)を旅行会社とメール交換しました。参加希望者が15人になり、できればもう一人加えた16人であればホテルの部屋割りをする上で好都合かな…と考え、4月に実施した県連のベトナム・トレッキングの際に、他会の参加者にも声を掛けたところ、1人の参加が決まり、追加手続きをしました。
最終的には、1人が仕事と怪我でキャンセルになり、改めて追加募集をしましたが応募する人がなく、『1人のキャンセル』と『1人の航空券変更』などの手続きをしました。
最終書類が旅行会社から参加者各自に届く頃と前後して、現地で大きな地震が発生し、余震も続き、参加者はもとより、家族や会員からも多くの『大丈夫?』という心配の声が寄せられました。震源地は、幸い私達のコースとは離れており、影響もないということで、予定通り実施することにしました。大事に至らないことを願って…。
<第1日目> 11月22日(火)
16:30には、成田空港に1名を除き集合し、チェックインをし、両替も各々済ませました。30分程遅れて1名も着き、全員揃ったところで、旅行会社の担当の方の見送りを受け出発
<2>ミルフォード・トラック(南島)
<第2日目> 11月23日(水)
オークランド空港にて国内線に乗り継ぎ、クイーンズタウンに着いた日の夕方、トレッキングの説明会がありました。
『荷物濡れ対策用特製大型ビニール袋』、『寝る時にベッドで使うシーツ』、『最終宿泊地への荷物配送用バッグ』、『トレッキング・コース案内&地図』などを受け取りました。『ザック(ザックカバー内臓)』も貸し出しをしており、何名かが借りました。
このコースは、『世界で最も美しい散歩道』と呼ばれ、世界のトレッカーの憧れの場所で、日程は4泊5日で、1日に50人しか入れない…という狭き門です。今回は世界各国からの50人とガイド4人でした。日本人は、私達15人のみでしたが、そのためかどうかは分かりませんが、ガイドに日本人1人(川崎一樹さん:京都出身)が入っており、何かにつけて大助かりでした。参加者は、ファースト・ネイムが書かれたネイム・タグを渡されました。例えば、私は、『HIDEO』で、『ヒデオさん』と呼ばれてもピンときませんでしたが…。
<コース概要>歩行距離 約54km(33.5マイル)、
出発地点標高(グレイド・ワーフ)202m、 最高地点標高(マッキンノン峠)1154m、
ゴール地点(サンドフライ・ポイント)標高0m
<第3日目> 11月24日(木)
前日の説明会場に集まり、緊張と期待の面持ちで9:00にバスに乗り込みました。時折、小雨の降る中を走り、車窓からは、山斜面一帯の牧場で草を食んでいる牛、羊、鹿が沢山見られ、反面、民家は殆ど見られず、ニュージーランドの自然の大きさを感じました。
テ・アナウ・ダウンズから船に乗り、コースの出発地グレイド・ワーフ202mに渡り、東葛山の会の旗と一緒に記念写真を撮った後、14:15に広い平坦な道を歩き始めました。
今宵の宿『グレイド・ハウス』に14:35に着き、割り当てられた部屋に荷物を置いた後、小屋の前に集合し、参加者全員とガイドの総勢54名の集合写真を撮った後、日本人ガイドと共に、小屋の周辺を散策しました(約1時間40分)。後で分かった事ですが、この時に、私達の『足並み(歩き)』をチェックしていたようです。
『鹿肉料理』の夕食後、参加者の自己紹介がありました。勿論、全てが英語ですので、大半が理解できませんでしたが、雰囲気を感じ取ることはできました。私達『チーム・ジャパン』は、15人全員が前に出て、『東葛山の会』の旗を広げたところで、『ウォーッ!』と声が上がりました。写真を撮る人もいました。私が代表で、会の紹介や創立40周年記念でニュージーランド・トレッキングに来たこと等を話し、その後、一人一人に『名前』を言ってもらいました。明日の予定の説明後、解散となりました。
<第4日目> 11月25日(金)
各自で昼食(サンドイッチなど)を作った後、朝食を摂り、準備できた人から順次スタートしていきました。私達は、小屋の玄関前で写真を撮り、8:40にスタートしました。
湿地帯に寄り道し、個人ウォーク用の『クリントン小屋220m』で一休みし、『ヒレレ小屋』でガイドが準備してくれたコーヒーや紅茶を飲みながら、サンドイッチを食べました。
『ヒレレ滝』を眺め、『プレイリー湖』付近からは雨が強くなり、風も出てきました。身体が冷え切る前に、今宵の宿『ポンポローナ・ロッジ450m』に14:50に着き、濡れた衣類、雨具、靴、ザックなどを乾燥室に入れました。この乾燥室は、強烈で、2時間ほどすると大概のモノは乾ききっていました(洗濯機は無く手洗いし、子供の頃使ったことのある2本のローラーで絞り、乾燥室で乾かす)。連日お世話になりました。
夕食後、『明日は峠越えで、このコースのハイライトで、峠付近はかなり寒いことが予想される…』などの説明に、緊張の面持ちで耳を傾けました。
外は相変わらず、雨が降り続いています。明日も雨の中を歩くのかな…?
<第5日目> 11月26日(土)
昨日同様、サンドイッチを作り、朝食を摂り、雨具上下を着て、7:40過ぎにスタートしました。殆どのハイカーは既に出発しており、私達は遅い方でした。
個人ウォーク用の『ミンタロ小屋700m』で休憩後、ルート最高地点を目指す登りにかかりました。雨がいつのまにか霙(みぞれ)そして雪に変わり、登山道には雪が現れ始めました。大きな丸い葉を持った白い花が目立つようになりました。なんと、これが、あの有名な『マウントクック・リリー』でした。登山道沿いに咲き競っていまし
た。
ジグザグの道を登り、登り切った所にある『マッキンノン記念碑』で、ガイドからホットチョコレートのサービスがあり、冷えた身体にはありがたかったです。風が強く、雪景色に変わっており、休む間もなく、先の小屋を目指しました。冷たい風は容赦なく吹き荒れ、バランスを崩すほどでした。この時の女性ガイドは短パンでした!
『マッキンノン峠1154m』の看板を過ぎ、『パスハット(峠小屋)』で、ガイドの準備してくれたコーヒーや紅茶でサンドイッチを食べ、身体も暖まりました。小屋前からは、先
ほど登ってきた谷が見下ろせました。でも、空はどんよりとしていて、周りの山々を見渡すことが出来ませんでした。期待していたので、非常に残念でした。
いつまでも小屋にも居られず、意を決して強風の中を出発し、このコース最大の難所と言われる急なジグザグの雪道を下りました。激流となった川沿いに下り、いつの間にか傾斜も緩み、『カスケード小屋』で小休憩し、更に下り、吊橋を渡って、今宵の宿『クィンティン・ロッジ250m』に着きました。雨は降り続いていました。
雨に打たれた身体は冷え切っていましたが、一人でニュージーランド最大の『サザーランド滝(落差580m)』を見に行きました。連日の雨もあり、滝の迫力は凄まじく、滝壺近くでは、水しぶきと風が半端ではなく、長く立っていることが出来ませんでした。大きな岩陰に隠れ写真を撮ろうとしたのですが、レンズが濡れ、思ったような写真は撮れませんでした。汗と雨で全身びしょ濡れになり、小屋に戻ってきました。
夕食時に、突然大きな音がして、ガイド4人が思い思いに扮装して食事を運んできました。これには皆びっくりすると同時に、大変盛り上がり、ガイドのサービス魂には感心させられました。
夕食後、明日の説明を受け、各部屋に戻りました。
<第6日目> 11月27日(日)
前日同様、サンドイッチを作り、食事をした後、思い思いに小屋を出ました。私達は、ガイドに、『今日の行程は長いので急いで…』と、せかされて出発しました。
緩やかな道を急ぎ足で歩き、個人ウォーク用の『ダンプリン小屋』で休憩し、豪快な『マッカイ滝』」で記念写真を撮り、大きな『ベル・ロック』を見て、先を急ぎました。
『ジャイアンツゲート滝』手前の小屋で小休憩し、『エイダ湖』を右に見ながら進み、受刑者によって整備されたアーサー川沿いの登山道の岩壁には、かすかに日付らしきモノが刻まれていました。
道は更に平坦になり、ついにゴール地点の『サンドフライ・ポイント』に着きました。私達は、20~34番目の到着で、ガイドの用意してくれたコーヒーや紅茶で一息ついた後、ミルフォード・トラックのゴールを表す『33.5マイル』の碑の前で、15名全員揃って記念写真を撮りながら、船を待ちました。
船で対岸のミルフォード・サウンドへ渡り、僅か2分間のバスに乗り、今宵の宿『マイターピーク・ロッジ』に着きました。
これまでの山小屋での3泊は、定員4~6名の2段ベッドの大部屋でしたが、ここはツインのホテル形式のロッジで、私はオーストラリア人と相部屋でした。
夕食後、完歩賞の授与式があり、真っ先に、我がチーム・ジャパンの岡部さんが呼ばれ、どぎまぎしながら完歩賞を受け取りました。その後、一人一人呼ばれるたびに、独特のパフォーマンスがあり、笑いの絶えない時間でした。50人全員が受け取った後に、お礼の意味を込めて、チーム・ジャパンを代表して、井上(順)さんに『江差追分』を披露して貰いました。外国の参加者は、どのように感じたことでしょうか。これに刺激を受けたのか、地元ニュージーランドの男性2人が、ラグビーで良く知られている『ハカ』を披露した後、お開きになりました。
夕食時のガイドの話では、私達より1日遅れで入山した人達は、マッキンノン峠付近の積雪が深く、更に風も強く、これ以上歩くことは不可能と同行ガイドが判断し、全員がヘリコプターで次の小屋まで降りたそうです。(ガイド付きウォーク48人、ガイド4人、個人ウォーク40人の合計92人)。11月末としては、異常の積雪だそうです。
明日の予定を聞いて、部屋に戻りました。
<第7日目> 11月28日(月)
ミルフォード・トラックの完歩の達成感を胸に、『ミルフォード・サウンド』のクルーズ(1時間30分)を楽しみました。
観光船ターミナルを出て間もなく、右手に、水力発電に利用しているサウンド内最大の『ボーウェン・フォール160m』の迫力に接し、左手前方に、ポスターやガイドブック等に必ず掲載されている『マイターピーク1692m』を見上げながら、船は湾内をゆっくり進みました。湾の両側の山々は、雪化粧して海にほぼ垂直に稜線を落とし、海と空は真っ青で、雨の中の4日間のウォークとは違って、心はウキウキ状態でした。
時々、船はエンジンを止め、岸辺を見ると、岩陰を動き回っている『ペンギン』や岩の上で日向ぼっこをしている『オットセイ』」などを見ることができました。また、両岩壁からはいくつもの迫力ある滝が湾に流れ落ち、虹を見ることもできました。
クイーンズタウンへの帰りの『ミルフォード・ロード』と呼ばれる山岳道路では、氷河で作られたU字谷そして雪化粧をした山岳風景を車窓から満喫することができました。
<3>マウント・クック国立公園(南島)
ニュージーランド最高峰の『マウント・クック3724m』を眺めながらトレッキングをしたくて、今回の日程に加えました。
<第8日目> 11月29日(火)
『プカキ湖』の太陽に照らされたエメラルドグリーンの湖面に感激し、この天候では、マウント・クックを望めるのでは…と期待していたのでしたが、『ハーミテージ・ホテル(シャレー)』に着いた時は、雨降りでした。先ずは、部屋に入り、空模様を見ながら、各自昼食を摂り、雨が上がるのを待ちました。
足慣らしに『ケア・ポイント・トラック』を歩くことにし、ビジターセンターで地図を買い、車道の向かい側の看板に導かれて低木の中の道に入りました。石ころだらけの河原を横切り、ホワイト・ホース・キャンプ場への道を2度右に見送った後、岩交じりの道を登った所に木製の展望台がありました。
眼下には、氷河独特の灰色をした『ミューラー湖』が横たわり、その後ろ遠くにマウント・クックの下の方のみが見えました。山頂部は、残念ながら雲に隠れ、顔を一度も見せてくれませんでした。何度も何度も後ろを振り向きながらシャレーに戻りました。
深夜に外に出たところ、満天の星空でしたが、憧れの『南十字星』を見つけることは出来ませんでした。
<第9日目> 11月30日(水)
5:00に起きて、外に目をやると、マウント・クックが姿を現しているではありませんか…! 慌てて身支度をし、カメラを持ってホテル裏の高台に向かいました。
山頂部が朝陽に照らされ始め、刻々と変化するマウント・クックに見とれていました。
シャレーに戻り、みんなと一緒に再び高台に登り、大展望を楽しみました。
9:00前にランチボックスを受け取り、人気の『フッカー・バレー・トラック』に向かいました。昨日とは打って変わって雲一つない大快晴で、マウント・クックの姿がバッチリ眺められ、ルンルン気分で足取りも軽やかでした。
吊橋3つを渡り、氷河がせり出した『フッカー湖』に辿り着き、マウント・クックを眺めながら昼食を摂る…という至福の時間を過ごしました。僅かに波が立っている灰色のフッカー湖面には、雪を纏ったマウント・クックが写り、見上げれば青空に堂々と聳えている本物のマウント・クックが圧倒してくるではありませんか…!
夕食前に、夕陽に照らされ刻々と変化するマウント・クックを望むことも出来ました。今夜も満天の星空でしたが、『南十字星』を見つけることは出来ませんでした。
<第11日目> 12月2日(金)
一足先に帰国する江崎さんと別れ、オークランドからバスを走らせ、ワイトモ洞窟でツチボタルを鑑賞し、昼食を摂った後、途中の町タウマルヌイのスーパーで2日分の食材とビール、ワインを調達し、『パークホテル・ルアペフ』に16:30に到着しました。多くのトレッカーで賑わっていました。
明日歩く『トンガリロ山1967m』、その右には、富士山のような『ナウルホエ山2287m』、更に右には、雪に覆われた大きな北島最高峰の『ルアペフ山2797m』が望まれました。
<第12日目> 12月3日(土)
ホテルより昼食を貰い、7:30過ぎに、シャトルバスにて登山口へ向かいました。20分ちょっとで着いたのですが、その後、運転手から、山及びトレッキング・コース、そして帰りのバス時間などについて延々と説明があり、『いい加減早く降ろしてよ!』という気持ちになりました。恐らく全員が同じように思っていたことでしょう(約10分間)。
多くのハイカーが列をなして歩き始め、私達も後を追うように、最後のニュージーランド・トレッキングをスタートしました。最初の休憩後、トンガリロ山山頂を踏む5人(石塚、嶋本、菊池、羽鳥、安彦)が皆と別れ、先を急ぎました。岩だらけの道を登り、月面を思わせるような荒涼とした地形を進み、再び、岩交じりの道を登りました。
トンガリロ山分岐で小休憩した後、トンガリロ山を目指しました。小さな残雪を越え、大きな岩が重なり合っている山頂らしき所で休んでいる人に聞いたら、『ここが山頂だ!』ということで、私達も休むことにしました。ガスが立ち込め展望はゼロで寒く、早々に降りることにしました。
コースに戻り、『他のメンバーは既に先に行っただろうか…それとも未だかな…』と思いながら先を急ぎ、荒々しい『レッド・クレーター』を見た後、多くのハイカーが砂礫の急斜面を四苦八苦しながら降りている横を一気に『エメラルド・レイク』に下り、休憩を兼ねて、エメラルドグリーンの湖面を眺めながら昼食を摂りました。
『ブルー・レイク』を過ぎ、その後は単調な道をひたすら下り、途中、『ケテタヒ小屋』で小休憩し後、更に単調な道を黙々と歩き、先に着いていた皆と駐車場で無事合流できました。これで無事、予定していたニュージーランド・トレッキングの全てを終えました。
ホテルに戻る車窓からは、『エニシダ』の黄色の花が綺麗でした。しかし、外来種ということで駆除の方針のようですが、なかなか進まないのが実情のようです。
<5>観光あれこれ
トレッキングの無い日は、バスでの移動中に観光を楽しみました。
<第10日目> 12月1日(木)
マウント・クック国立公園からクライストチャーチへの移動途中で、『マウント・ジョン展望台』に寄り360度の大展望を満喫しました(現地オプション)。その後、『テカポ湖』に行き、名物『サーモン丼』に舌鼓みをし、ルピナスに囲まれた『善き羊飼いの教会』や『バウンダリー犬の像(牧羊犬)』などを見学後、湖岸に咲き誇るルピナスとカリフォルニアポピーに包まれたキャンプ場での散策も楽しみました。
<第11日目> 12月2日(金)
オークランドからトンガリロへ向かう途中で、ワイトモ洞窟の『ツチボタル』を鑑賞しました。洞窟内を小舟に乗り、ゆっくり回りましたが、天井一面に青白く光る光景は、満天の星空のようでした。
真っ暗な中を女性係員(船頭)がワイヤーを頼りに船を操作しており、出口に着いた時に大きなため息をついていたことが印象的でした。
<第13日目> 12月4日(日)
トンガリロからオークランドに戻る途中で、『タウポ湖』と『フカ滝』に立ち寄り、ロトルアでは、『テ・プイア(マオリ文化の伝承文化センター)』で世界一の『ポフツ間欠泉』や『マオリのアート及び手工芸』、『マオリ伝統音楽ショー』などを見学・鑑賞した後、マオリ伝統食『ハンギ料理』の昼食を楽しみました。
オークランドでは、最後の夜ということで、中華料理店『ドラゴン・ボート』にて夕食を摂った後、スーパーに立ち寄り、お土産などを買いホテルに戻りました。街はクリスマス一色といった感じでした。
<第14日目> 12月5日(月)
オークランドのホテルから迎えのバスでオークランド空港へ向かいました。市内は朝の通勤ラッシュ時間帯で、道路は車で一杯でした。しかし、そこは慣れたもので、迂回路を使って高速道路に入り、予定通り空港に着くことが出来ました。さすが!
チェックインを済ませ、出国手続きをし、免税店へ行き、『マヌカ・ハニー』を大量に買い、この2週間を思い出しながら朝食を摂り、搭乗口に向かいました。
約11時間のフライトで成田空港に着き、通関後、想い出を胸に帰路に就きました。
<6>記念海外登山を終えて
前年暮れから準備を進めた時は、まだまだ先と思っていたトレッキングも、大きなトラブルもなく、無事終了することができてホッとしています。参加者の喜んでいる姿に接すると、幹事冥利に尽きます。日程表と若干違ったこともありましたが、何とか参加者の皆さんのご協力により乗り切ることができ感謝しています。ありがとうございました。
次はどこに行きましょうか?
エベレスト街道トレッキング カラパタール(標高5,450m)
思い出の山旅 その2 『40周年記念誌道しるべ』の続きです 猪狩晃一
エベレスト街道トレッキングカラパタール(標高5,450m)へ
(徒歩片道60km、標高差2,893m、往復14日間)
首都カトマンズから小型飛行機で登山口のルクラ(2,652m)へ、14日間山小屋泊の自炊、登山者7人、ポーター8人、総勢15人のキャラバン隊『カラパタール』目指し歩く、歩くの山旅 まるで真上を見上げる様な標高8000m級(6峰)の絶景ヒマラヤの山なみ、1日の徒歩は高山病順応の体ならし含め、5~7時間、荷物お任せの大名山旅。酸素1/2、高山病の恐怖、そして疲労、マスクが真黒の登山道のホコリ(風呂、シャワーなし、洗濯なし)との戦いでもあった。
【カラパタール頂上からの眺望エベレスト(中央奥)、ローツェ(右8,516m)】
ツア名 :『エベレスト大展望 カラパタール登頂20日間』 2007年11月
【憧れのホテル・エベレスト・ビューに泊まる】主催ヒマラヤ観光開発
(ホテルのオーナーであり、ヒマラヤのドン・キホーテ:宮原巍の話はホ
テル建設の話とともに後半に記載しました)
【エベレスト街道コース】
季節は乾季、晴天が続く中、”驚くなかれ”8,000mのヒマラヤの名だたる名峰、
白化 粧 のその山なみの風景は途切れることなく14日続く、まさに山旅の醍醐味
では ない でしょうか。これはその記録の写真集です。
【カラパタールとは】エベレスト望む独立峰で360度のパノラマの絶景地であエベレス
ト登頂の ベースキャンプに隣接する。登山道は積雪はなく、危険な場所もなく、登
山道を ひたすら歩く長丁場の体力勝負。
【メンバーの構成】登山者男5人、ガイド1人、サーダー(現地リーダー)、シ
ェルパ2人(登山者のサポート)、コック2人、ポーター3人(荷物運び)計14
人男のみ、その他ゾッキョ(ヤクと牝牛のかけ合せ)が3頭が荷物運び加わった。
*ナムチェ、タンポチェまでの登山客は多かったが、カラパタール登頂の登山
客は意外と少なく、日本人登山者に合ったのはアミューズのツアで下山組9人
のみ。日本は長期休暇の難しさからか、ほとんどがリタイア組と思われる。
【気候】ネパールは10月から5月までは乾季にあたり、雨は降らず気候は安定して
おり、日中は半袖、夜は氷点下3度位まで冷え込む、乾燥は半端ではなく、
埃はひどくマスクは1・2時間で真っ黒状態、メガネをかけるが自分の息で曇
り、対応のしようはなかった。帰って来て洗濯2回位では落ちなかった。
雨季は高山直物は多いが虫類なども多く登山客は少ないようである。
【宿・食事】山小屋は6畳程度の2人部屋造り付けけベット。寝る時湯たんぼが用
意された。山小屋でも食事は出しているが我々のツアは食事担当のコックが食材
を持参し、料理を作ってくれた。(おいしかった記憶はない)
朝食:味のないおかゆ、卵料理、大根・ニンジン等の野菜、トースト(ジヤ
ム、はちみつ)、紅茶、コーヒー
昼食:サンドウィッチ、魚の缶詰、サラダ、紅茶、コーヒー
夕食:ご飯、野菜炒め、カレー、桃等のデザート、紅茶、コーヒー
* ディンポチェ(4,040m)で禁酒令出された。
【便所】山小屋の外のバラック小屋、ドアを手で押さえながら用をたす、そんな感
じ・水かめが埋めてあり、その上にもみ殻、枯葉が敷いて、2枚の板を架け
て、またいで事をなす。昔の田舎や古い山小屋を思い出す。
【高山病対策】カラパタールの頂上は酸素量は約半分(エベレスト1/3)
ツア会社の勧めで『三浦雄一郎の低酸素室』の体験をした。
低酸素室で運動(自転車漕ぎ)をし、標高6,000mの酸素環境をシミレーション
をする。2回ほど体験したが問題なかった。高山病は体力ではなく体質とのこ
と。その対策は高度順応と水を多く飲むこと(4から5L程度)
登山中はパルスキオキシメーターで酸素量60%以上を定期的に確認しながら
歩く。 富士山は頂上には滞在しないので参考にし難い。
今回はツア客は男7人で内登頂5人、脱落2人+ポータ1人)。
平均的にも3割から4割は脱落者が出るようです。脱落者はポーター付き添われ
即下山、場合によってはヘリを呼ぶことになる。(今回1人は保険でヘリを呼
ん)日目ディンボチェ(4,040m)を出発後全員下痢状態になり、うんち場探
すが樹木がないせいもあり、見渡しがよく困っているとシェルパが案内してく
れたのが大きな石の裏側、テッシュペーパーとうんちがいっぱい。通常
『うんち畑』呼ばれているとの事。
登頂前々日のロブチェ(4,930m)の山小屋で高山病で酸素吸入しながら苦し
んでいるところへ重大ニュースが飛び込んで来た『その上の山小屋ゴラクシェ
ブ(5,100m)で2日前に高山病で日本人とドイツ人が亡くなった』と云う話。
【カラパタール(右側)とゴーキョピーク(左側)のマップ】
参考:チベット側からのチオランマ(エベレスト)の全景(写真は他よりi引用:本旅と無関係)
【到着したカトマンズ空港でのトラブル】
2万円の陶替えをしたら1万5000円分ルピーが返ってきた、すなわち
5,000円分のおつりが誤魔化せられたことになるが事前にガイドから注意を
受けていたのでその場で確認をして難を逃れた。またカトマンズからルクラに行
く飛行機では荷物を運んだからと言って裏に呼出されチュップを請求された。
【1日目 "いざスタート" ルクラ(2,652m)からパクディン(2,652m)へ】
起床7時、出発8時、歩行は4時間 ともかくゆっくりペース、決して頑張な
い、14日間の長丁場、無理すれば後が持たなくなる。また絶景山並みを堪能して
もらいたいとの意図もある。
チョルデン(仏塔)はいたる所にあり、左側を通る。
【2日目パクディン(2,652m)~ナムチェ(3,440m)歩行6時間】
シェルパの里ナムチェ橋に巻きついたタルチョ(祈りの旗)
ナムチェの集落に到着
集落の中の路地は車がないことから狭く、商店街風になっており、LEKIのストックを2本7,000円で買ったがスチール製のまがい品であった。
【3日目ナムチェ(3,440m)で街道で1番大きな村:高度順応ため滞在】
気温がマイナス10度かなり冷え込む、上下の羽毛の防寒着を借りる。
標高8,000m級が5つが一望出来るシャンポチの丘(4,450m)から後方にエベレスト、ローツェ(8,516m)の山なみ、チョーオュー峰(8,152m)、カンチェンジュガ峰(8,586m)、マカルー峰(8,463m)、そしてアマダプラム(6779m)までが
一望出来る ”まさに圧巻”
最初に見えたエベレスト(左奥)、ローツェ(右端)
チョーオュー峰(8,152m)
カンチェンジュガ峰(8,586m)
何とも気になる山アマダプラム(6779m)乙女の峯
マカルー峰(8,463m)
露店市場、品物はほとんどが人の手でチベットからヒマラヤ山脈を越えてくる
お祭りの風景
【4日目 ナムチェ(3,440m) ~ タンボチェ(3,867m) 歩行6時間】
徳島の40代男性がここでリタイヤ、ヘリでポーター付き添いで下山、登山は初心者
で生き方を変えたいので会社を辞めてのチャレンジだったようでした。
高山病予防のため、お酒はこれより禁酒
こんな立派な寺院がある(中庭があり、かなり広い)資材運搬、今はヘリですね、
【5日目 タンボチェ(3,867m) ~ ディンポチェ(4,040m)歩行6時間】
学校 後方タムセルク峰(6,623m)
民家
【6日目ディンボチェ(4,040m) 高度順応のため滞在
チュクン川沿いの畑の中の民家の風景
【7日目 ディンボチェ(4,040m)~ ロブチェ(4,930m)歩行5時間】
タムセルク峰(6,623m)
【8日目 ロブチェ(4,930m)~ ゴラクシェッブ(5,100m)歩行4時間】
ここで1人高山病のためポーター付き添いで下山(これで棄権2人目)頂上まで
後 445m残念酸素ボンベイに助けれなんかもちこたえる。
元気のある人はもうひと頑張りベースキャンプを見学
【9日目 ”いざ” 頂上アタック
ゴラクシェッブ(5,100m)~カラパタール(5,545m)登頂 ~ ロプチェ
(4,930m) 歩行7時間】
顔をよく見てください。”色男” いやいや膨れ具合です。山の頂上でお菓子の袋が
パンパンになったことがあるでしょう。
頂上西側の眺望
頂上東側の眺望
【10日目ロプチェ(4,930m)~ ペレチェ 歩行5時間】
【11日目】カンデカ峰(標高6,700m)右端
真っ赤に染まったエベレスト(左奥)とローツェ(右)
【12日目 デボチェ ~ ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)泊】
3年前の当時、ヒマラヤ観光開発(株)のエベレスト街道のツアは『憧れのホテル・エベレストビューに泊まる』をキャッチフレーズにしていました。
私どものパーティも下山途中、600m登り返しで寄り道をしての宿泊した。
外観はシティホテル並でそれなりに自然との調和は配慮されてはいるがヒマラヤの山奥には全く見かけない近代的な建物に驚らかせられました。
そしてその絶景は評判通り、エベレストをはじめローツェ、アダムプラム等ヒマラヤの名峰のパノラマが眼前に迫って来るすごい迫力。
ただ内部もシティホテル並のではあるが燃料事情により、エアコンは可動せづ、石油ストーブ、バスルームはお湯は出ず、バケツのお湯で体を拭く程度でした。(オーナー及び設計者の計画と現実のギャップには苦笑い)
石油ストーブだけの寒い大食堂は残念ながら期待はずれでしたがここで幸運にも、このホテルの設計者の遺族とその関係者の日本人グループに会い思い出話に入れてもらい楽しい時間でした。
設計者はオーナーの宮原巍氏(追って記載)とは若き日の登山仲間との事でした。
女性のお孫さんや大学の後輩等を含めた総勢10人で『弔い記念登山』とて来たとの事でした。この人たちにとって48年前に標高3880mのヒマラヤの山奥にヘリポート付のホテル建設の功績は大きな自慢の評価なのでしょう。
資材を人力で運搬し建設したと言う。
大食堂の窓越しにエベレスト(中央)、アマダプラム(右)の眺望(写真他より引用)
【13日目ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)~ バクディン】
【14日目バクディン(2,652m)~ルクラ到着 】
無事帰還を祝ってのサーダー(現地人のリーダー)との記念写真(満足の笑顔)
下山後ルクラで全員で打ち上げパーティ(ロッジの部屋を貸し切って)、食べ物、登山用具等の残り物をシェルパ、ポーター等にプレゼント、歌あり、酒あり、見よう見まねの現地の踊り、ドンチャン騒ぎ、会費5,000ルピー(1万円)
【エベレストにまつわる3人の化け物の話】
年末本文の編集をしている時偶然にも『南谷真鈴』出演のテレビ番組をみました。
今年の5月『日本人女性の最年少エベレスト登頂』、7大陸最高峰制覇の偉業、早稲田大学の2年生19歳、少々大柄であるがなかなかの可愛い子ちゃん、彼女曰く『私はプロの登山家ではありません、趣味の延長上で登っています』そこには『頑張り感、誇示感、生活感、悲壮感』等感じさせない飄々とした話しぶり、もう1人は『80歳でエベレスト登頂の偉業』成功した、三浦雄一郎の話。御神輿にかつがれた様な登頂、頂上からヘリでの下山等、あれでも登山家と登山家野口健に揶揄されながらの偉業。いずれにしろ凄い、化け物2人ですね。
そういえばこのカラパタール山行の時、三浦雄一郎が75歳エベレスト登頂チャレンジや、北京オリンピックの聖火がネパールからエベレストを超えチベットへ運ぶ計画が話題になっていました。
『3人目の化け物はこのトレッキングで会った宮原巍(たかし)の話』
下記の文章は図書紹介で5年前にやまびこに記載されたものを1部編集しました。
ヒマラヤのドン・キホーテ 著者 根深誠
ネパール人になった日本人・宮原巍(たかし)の挑戦
『カラパタールトレッキング』下山後ネパールの主都カトマンズの『ホテルヒマラヤ』のロビーで仲間と雑談をしている時にサンダル履きで、ふだん着の日本人らしき1人の老人が話しかけてきた、その人がこのホテルのオーナーであり、また『ホテル・エベレスト・ビュー』『ヒマラヤ観光開発(株)』のオーナーでもある、この物語の主人公の宮原巍であった。
世界一の標高地で、エベレストの絶景地3,880mに建つ『ホテル・エベレスト・ュー』建設の話、今ではホテルには自力では行けず馬で行く話(ルクラから往復4日)、還暦でエベレスト登頂に挑んだ話、そしてネパールに帰化して、国会議員に挑戦すると言う話を熱く語ってくれた。
ダークダックスの『山男の唄』で知られている第一次登山ブームの頃、日大の山岳部に所属し、山にのめり込み、そしてヒマラヤに憧れ、夢叶え30歳代でネパールに永住することになる。そして今度はネパールに帰化して、国会議員に立候補、落選。ましてや74歳の今にして今後も、国会議員に立候補は続けると云う。
山に憑かれた破天荒人生、まさにドン・キホーテの世界でしょう。
この本は言うなれば『宮原巍の自叙伝』であるが何故か山岳作家の根深誠が著者である。さすがにプロの作家であり、インタービュー形式なので結構読み易いです。
(白井市立図書館にはありました)
今の宮原巍の近況
81歳になった今も健在でエベレスト・ビュー、カトマンズのホテルに続いてワールド航空サービスの支援を受け3つ目のホテル『ホテル・アンナプルナ・ビュー』を建設中で地震で遅れ現在内装工事中。アンナプルナ連峰、マナスル等の絶景地との事。
【参考:エベレスト街道のトレッキングコースのマップ】
インカ道トレッキング空中都市マチュピチュ遺跡へ
思い出の山旅その1『東葛山の会40周年記念誌:道しるべ』の続きです..猪狩晃一
『インカ道トレッキング空中都市マチュピチュ遺跡へ』
(歩行距離 43km 3泊4日)
インカ帝国の古代首都クスコ(標高3400m)から古代インカ道をテント泊
登山者 8人、ポーター13人、添乗員1人の総勢22人インカの歴史を辿る
マチュピチュへの山旅
【インカ帝国とは】比較的新しく15世紀半から16半世紀(室町時
代)に 隆盛を誇ったが21人(他説170人)のスペイン軍に侵略
され滅亡、『石と焼成レンガの文化に優れていたが』『文字と鉄
(武器等)』を 持たなかったと言う。
【空中都市マチュピチュ遺跡とは】
スペイン軍の侵略を逃れ(他説あり)アンデスの奥地の隠れた断
崖絶壁の頂 に何故このような集落を創ったか!全体が石造りでそ
の石はどこから運ばれ たか!
『その技術は・インフラは・そしてその生活は・文明とは』
“謎・謎・謎”
インカ帝国の首都クスコから直線で北西70km位置し、総面積
5000㎡麓から標高差400mの所に600年前の石の建造物の 遺
跡である。その石造りの技術は現代でも通用する。、創造を絶
すする困難な作業そしてその壮大な風景は見る者を圧倒する。
1911年アメリカの歴史学者(インディジョーンズのモデル)が
発見するまでの 4世紀近く人の目にさらされる事のなかった非
常にまれた幸運な遺跡でもある。
* 崇められていた太陽の神に近い高地あること、王族の避暑地
と言う説もあり,最大750人位までが生活が可能であったよ
うである。また侵略から 逃れるために低い位置(裾野)から
見えない隠れ砦でもある。
* 40段の段々畑で農作物が栽培されたと言われている。飲み水
の水源は当地にあり、作物用には雨水を貯めたようである。
われています。
【ツア名】『インカ道トレッキングとワイナピチュ登頂10日間』
(2007年6月)
【インカ道トレッキングとは】インカ帝国時代に『偉大なる道』
呼ばれ、エクアドルからチリまであったが今回のトレッキング
はクスコから、 峠3つ(4200m、3950m、3670m)を超え、
全長43km、古代の中継地8か所 の遺跡を巡り『ゴールは
秘密の都市マチュピチュ】へ、3泊4日のテント泊 の旅
(1日行程:10km~12km、6時間~8時間、標高差600m
~1200m) 国立公園に指定され、入場料を払っての現地ガ
イドの案内、入場制限もある。
【気候】この地は4月から10月は乾季であり、雨は降らず、好天
が続きが 紫外線が強く、昼は20度位で夜は氷点下まで冷え込
む時もある。空気の澄んだ満天の星空は素晴らく、星も大きく
近くに感じられた。道すがら見たこともない不思議な高山植物
が多く、驚き、楽しませてくれた。
【食事は】:持参した食材を料理班のポーターが料理、我々は上げ
膳据え膳である。
朝食:おかゆ
昼食:コーンスープ、サラダ、たら焼き、ケーキ
夜食:かぼちゃのスープ、サラダ、チキン料理
その他日替わりメニューで肉類、魚料理あり。
上記は1日のメニューの例である、さほどおいしいとは言えなか
ったが腹が 空くのでそれなり食べれました。中には香辛料が強
過ぎ、まったく口に 出来ず、苦しんでいた人もいました。
【ポーターとは・炊事・便所】13人のポーターはテントから食材、
そして登山者の荷物を 運び炊事をしてくれる。便所は穴を掘り、
運んで来た便座を置き、それ用のテントを 張る使用後は埋めて
終わり。サーダー(リーダー)は日本に5年間出稼ぎで建築現場
で働いていたこと
から日本語が堪能でインカの歴史、草花に詳しかった。
【インカ道3泊4日のトレッキングマップ:ルート黄色線】
マチュピチュの全景像(他より引用)
スタート地点クスコ観光(インカ帝国の首都)
公園に出没したコンドル(全長約1m)写真は借り物
【1日目】 いよいよインカ道トレッキングの始まり、クスコから
スタート地点ウルバンバ(2700m)車で移動、そこで案内人
・世話役のホーター達と合流。
(徒歩5時間、10km、標高差400m、テント泊)
アンデス山脈ベロニカ峰(5800m)の眺望とインカ道
民家の風景(2日目からは民家はなかった)
中継地点としての古代インカの遺跡
【2日目】
トレックング中1番きつい『ワルミワニュスカ峠(4200m)』超え、
冠雪のアンデス山脈のワカウィルカ峯(5800m)はやけに近くて
美しい光景に感動。
(徒歩 8時間、11km、標高差登り1200m、下り700m、テント泊)
戯れるアルパカ
手前の人影郡『”さあ””さあ”おひかいなさって』
【高山病】:標高と疲労が加わり65歳の女性が急におしゃべりが
止まらなく、嫌がる仲間にやたら声をかけ、中身の無い
大声の掛け声に皆は逃げるが追い打ちをかける。
ハイになるのも高山病の表情の1つとのことでした。
下山が進むとただちに回復。標高4,200mの峠には留まらず
超えるだけだったのでこの程度で済んだようだ。
【3日目】
第2峠標高3950mを超え、そして第3峠3670mを登る苦しい
行程であったがルンクラカイ遺跡とサヤクマルカの遺跡の見学
が見どころであった。
(徒歩 7時間、11km、累計標高差1200m、テント泊)
インカ帝国の遺跡
我々の荷物を背負ったポーターと石畳みのインカ道そしてアンデス山脈の眺望
テント泊 2・3人用
4日目
ブユバタマルカ遺跡、ウィニャイワイナ遺跡をを見学、いよいよ
マチュピチェ遺跡へ
(徒歩 7時間、10km、下り標高差1500m、4日ぶりの入浴・ホテル泊)
正面玄関の『太陽の門』を通り、麓やルートからも全くその姿を見せなかった
隠れ砦『マチュピチェ遺跡』がいきなりに眼前に広がる。
【物売りの子供】途上国にはつきもので、つづら折れの観光バス道に垂直の
近道の歩道があり、子供たちはその道を先回りをして同じ観
光バスの窓で同じ客に何度もせがむ『押し売りの名所』とな
っいる。
農作物の栽培に利用されたと考えられる段々畑を通ってマチュピチェ遺跡へ
マチュピチェ遺跡全景
正面がワイナピチュ(山)
2階建ての部分が1ケ所だけある
【インカ道の高山植物】
高山植物の宝庫であり、野生のラン科が多いとのこと。日本には
無い異様な形、色合い、種類も多くドキドキの連続。花の名前は
図書館等で調べたが難しかったのであきらめた。
1917年野内与吉は契約移民としてペルーに渡り、地元の国鉄に勤め、
日本で学んだノウハウを活かし、村の発展に貢献、事業にも成功した
と云う。マチュピチュは温泉地としても有名であり、日本人観光客に
人気スポットであるが日本の温泉とは違い野外の温泉プールに水着で
入る様のもの。それでも我々のように登山後の入浴は極楽気分であった。
街の雰囲気が日本の温泉街似ていると云う、言われてみれば、
そんな感じもしないでもなかったかな!
その温泉を最初に造ったのは野内与吉だったとのこと。
2011年の震災の後大玉村はマチュピチュと友好都市を結び村の
ホームページのアクセスは1日2,000件を超える位の盛り上がりがある
と云う
金時山ハイキング
日時 12月3日 メンバー 12名
コース 金時神社入口~金時神社分岐~金時山山頂~長尾山~乙女峠
~乙女峠バス停・・・温泉会館(入浴)
東武鎌ヶ谷に集合したメンバーと船橋駅で合流し新宿へ向かい新しい新宿バスターミナルから小田急の箱根線バスに乗り一路箱根へ。 バスは乙女峠を過ぎて金時神社入口で下車、神社で支度を整え、ハイキングの開始です。
金時神社にて
歩きは快調で山頂までは何事もなく予定通り到着。
山頂に向け快調に歩く
山頂についてみるとハイカーであふれるばかり座るところも無い有様です。それでも何とか場所を確保し昼食タイム。
山頂での昼食タイム
金時娘ならぬ金時ばーちゃんは今日はいるのかなと茶屋を覗いて見ましたが不在。金時ばーちゃんも見ることが出来ずに多少がっかりでした。
茶屋の中も人出大混雑
それでは景色をと周りを見渡して見ると、天気予報では快晴の登山日和でしたが、山頂では雲が出て富士山も頭がすっぽりと隠れて良いところなしでした。 取り敢えず山頂での記念写真を撮りましたが富士山は頭が隠れてちょっと残念!
山頂にて
混み合った山頂を後にして下山を始めると途中で雲が切れて雄大な富士山を見る事ができました。
下山途中で見た富士山
乙女峠まで下山してバスで温泉会館へ、そこで入浴ののち新宿へ向かいました。
本日の山行めでたく終了です。 ”めでたし、めでたし!”
焼岳登山
2016年9月9日~10日 (1泊2日)
メンバー 6名
1日目 新宿駅に11時前に到着出発ホームに行くとメンバーが集まって自由席の乗車口にならんでいた。私も一緒になり予定通り11時に出発。松本駅で14:45分の送迎バスに乗り中の湯温泉に到着。中の湯温泉旅館、山の中の一軒宿ですが奇麗で中々良い旅館です。早速部屋で荷物を置き温泉へ! 浴槽に浸かり正面の景色を見ると右に前穂、中央に奥穂という素晴らしい景観です。
宿の湯ぶねから見る夕暮れの穂高の山々
夕日に映える穂高の山々を見ながらゆったりとした時間をすごす。夕食を採り明日の準備をして就寝。
2日目 朝食をとり、もう一人のメンバ^-と合流、7:30に中の湯温泉を出発する天気は快晴、宿のわきの道をゆくとすぐに中の湯新道の登山口にでる。 樹林帯をゆっくり登り黙々と高度を稼いでいく。2時間弱で下堀沢との出合にでる。(9:20)
下堀沢から見上げる焼岳
階段やはしごなどを歩きやがて大小の岩だらけの道になり噴煙も見えてくる。頂上も間近になる。
焼岳南峰の火口
南峰は立ち入り禁止のため北峰に登頂。天気は快晴。360度の景観を楽しむ。
山頂にて記念写真
山頂湖
山頂より見る北の山々
昼食をとり下山する。中の湯温泉14:15に到着。
温泉に浸かり、さっぱりしてタクシーで松本駅に出て夕食を軽く摂り17:18分のあずさ30号に乗車、帰宅へ。
初秋の八海山
初秋の八海山
日程 9/10 鎌ヶ谷大仏5:45 上野7:06(新幹線) 六日町8:34 八海山ロープウエイ9:50
千本檜小屋13:00
9/11 千本檜小屋7:00 復路を戻る。
今頃の八海山は山頂から眺めると、「黄金色でパッチワークの風景だよ 」と、言われる。
初めての山なので心が動きました。それに11日が私のバースディを兼ねての山行きでした。
八海山神社は中世以来、越後有数の信仰の山として開け、10月には裸足で火の上を歩く火渡り大祭が行われる。
我々はじいちゃん、ばあちゃんの軟弱?グループ故、一気に4合目までロープウエイで運んでもらう。
ロープウエイの前の八海山大神から歩き出しました。
まだ、観光シーズンには早く登る人も少なく、ゆっくり、ゆっくり登る。
六合目の女人堂です。ここでカフェ「やすだ」の美味しいコーヒーでお昼にしました。
檜小屋に荷物を置いて、不動岳、地蔵岳まで行きました。その先の怖い八ツ峰は眺めただけでした。
後ろで見つめる余裕の熟女たち。
小屋の前で老いも、若きの人たちにも祝って頂きました。 今宵の宿、九合目の千本檜小屋です。泣けるほど嬉しく幸せの一時でした。
小屋の前にドーンと聳える越後駒ヶ岳。大きいね。 色づいたナナカマド
左の丸く下がった所まで行ったんだよね。怖かったね。
と、言いながら振り返っている、元気なばーちゃん達。
1本紅葉していました。