エベレスト街道トレッキング カラパタール(標高5,450m)
思い出の山旅 その2 『40周年記念誌道しるべ』の続きです 猪狩晃一
エベレスト街道トレッキングカラパタール(標高5,450m)へ
(徒歩片道60km、標高差2,893m、往復14日間)
首都カトマンズから小型飛行機で登山口のルクラ(2,652m)へ、14日間山小屋泊の自炊、登山者7人、ポーター8人、総勢15人のキャラバン隊『カラパタール』目指し歩く、歩くの山旅 まるで真上を見上げる様な標高8000m級(6峰)の絶景ヒマラヤの山なみ、1日の徒歩は高山病順応の体ならし含め、5~7時間、荷物お任せの大名山旅。酸素1/2、高山病の恐怖、そして疲労、マスクが真黒の登山道のホコリ(風呂、シャワーなし、洗濯なし)との戦いでもあった。
【カラパタール頂上からの眺望エベレスト(中央奥)、ローツェ(右8,516m)】
ツア名 :『エベレスト大展望 カラパタール登頂20日間』 2007年11月
【憧れのホテル・エベレスト・ビューに泊まる】主催ヒマラヤ観光開発
(ホテルのオーナーであり、ヒマラヤのドン・キホーテ:宮原巍の話はホ
テル建設の話とともに後半に記載しました)
【エベレスト街道コース】
季節は乾季、晴天が続く中、”驚くなかれ”8,000mのヒマラヤの名だたる名峰、
白化 粧 のその山なみの風景は途切れることなく14日続く、まさに山旅の醍醐味
では ない でしょうか。これはその記録の写真集です。
【カラパタールとは】エベレスト望む独立峰で360度のパノラマの絶景地であエベレス
ト登頂の ベースキャンプに隣接する。登山道は積雪はなく、危険な場所もなく、登
山道を ひたすら歩く長丁場の体力勝負。
【メンバーの構成】登山者男5人、ガイド1人、サーダー(現地リーダー)、シ
ェルパ2人(登山者のサポート)、コック2人、ポーター3人(荷物運び)計14
人男のみ、その他ゾッキョ(ヤクと牝牛のかけ合せ)が3頭が荷物運び加わった。
*ナムチェ、タンポチェまでの登山客は多かったが、カラパタール登頂の登山
客は意外と少なく、日本人登山者に合ったのはアミューズのツアで下山組9人
のみ。日本は長期休暇の難しさからか、ほとんどがリタイア組と思われる。
【気候】ネパールは10月から5月までは乾季にあたり、雨は降らず気候は安定して
おり、日中は半袖、夜は氷点下3度位まで冷え込む、乾燥は半端ではなく、
埃はひどくマスクは1・2時間で真っ黒状態、メガネをかけるが自分の息で曇
り、対応のしようはなかった。帰って来て洗濯2回位では落ちなかった。
雨季は高山直物は多いが虫類なども多く登山客は少ないようである。
【宿・食事】山小屋は6畳程度の2人部屋造り付けけベット。寝る時湯たんぼが用
意された。山小屋でも食事は出しているが我々のツアは食事担当のコックが食材
を持参し、料理を作ってくれた。(おいしかった記憶はない)
朝食:味のないおかゆ、卵料理、大根・ニンジン等の野菜、トースト(ジヤ
ム、はちみつ)、紅茶、コーヒー
昼食:サンドウィッチ、魚の缶詰、サラダ、紅茶、コーヒー
夕食:ご飯、野菜炒め、カレー、桃等のデザート、紅茶、コーヒー
* ディンポチェ(4,040m)で禁酒令出された。
【便所】山小屋の外のバラック小屋、ドアを手で押さえながら用をたす、そんな感
じ・水かめが埋めてあり、その上にもみ殻、枯葉が敷いて、2枚の板を架け
て、またいで事をなす。昔の田舎や古い山小屋を思い出す。
【高山病対策】カラパタールの頂上は酸素量は約半分(エベレスト1/3)
ツア会社の勧めで『三浦雄一郎の低酸素室』の体験をした。
低酸素室で運動(自転車漕ぎ)をし、標高6,000mの酸素環境をシミレーション
をする。2回ほど体験したが問題なかった。高山病は体力ではなく体質とのこ
と。その対策は高度順応と水を多く飲むこと(4から5L程度)
登山中はパルスキオキシメーターで酸素量60%以上を定期的に確認しながら
歩く。 富士山は頂上には滞在しないので参考にし難い。
今回はツア客は男7人で内登頂5人、脱落2人+ポータ1人)。
平均的にも3割から4割は脱落者が出るようです。脱落者はポーター付き添われ
即下山、場合によってはヘリを呼ぶことになる。(今回1人は保険でヘリを呼
ん)日目ディンボチェ(4,040m)を出発後全員下痢状態になり、うんち場探
すが樹木がないせいもあり、見渡しがよく困っているとシェルパが案内してく
れたのが大きな石の裏側、テッシュペーパーとうんちがいっぱい。通常
『うんち畑』呼ばれているとの事。
登頂前々日のロブチェ(4,930m)の山小屋で高山病で酸素吸入しながら苦し
んでいるところへ重大ニュースが飛び込んで来た『その上の山小屋ゴラクシェ
ブ(5,100m)で2日前に高山病で日本人とドイツ人が亡くなった』と云う話。
【カラパタール(右側)とゴーキョピーク(左側)のマップ】
参考:チベット側からのチオランマ(エベレスト)の全景(写真は他よりi引用:本旅と無関係)
【到着したカトマンズ空港でのトラブル】
2万円の陶替えをしたら1万5000円分ルピーが返ってきた、すなわち
5,000円分のおつりが誤魔化せられたことになるが事前にガイドから注意を
受けていたのでその場で確認をして難を逃れた。またカトマンズからルクラに行
く飛行機では荷物を運んだからと言って裏に呼出されチュップを請求された。
【1日目 "いざスタート" ルクラ(2,652m)からパクディン(2,652m)へ】
起床7時、出発8時、歩行は4時間 ともかくゆっくりペース、決して頑張な
い、14日間の長丁場、無理すれば後が持たなくなる。また絶景山並みを堪能して
もらいたいとの意図もある。
チョルデン(仏塔)はいたる所にあり、左側を通る。
【2日目パクディン(2,652m)~ナムチェ(3,440m)歩行6時間】
シェルパの里ナムチェ橋に巻きついたタルチョ(祈りの旗)
ナムチェの集落に到着
集落の中の路地は車がないことから狭く、商店街風になっており、LEKIのストックを2本7,000円で買ったがスチール製のまがい品であった。
【3日目ナムチェ(3,440m)で街道で1番大きな村:高度順応ため滞在】
気温がマイナス10度かなり冷え込む、上下の羽毛の防寒着を借りる。
標高8,000m級が5つが一望出来るシャンポチの丘(4,450m)から後方にエベレスト、ローツェ(8,516m)の山なみ、チョーオュー峰(8,152m)、カンチェンジュガ峰(8,586m)、マカルー峰(8,463m)、そしてアマダプラム(6779m)までが
一望出来る ”まさに圧巻”
最初に見えたエベレスト(左奥)、ローツェ(右端)
チョーオュー峰(8,152m)
カンチェンジュガ峰(8,586m)
何とも気になる山アマダプラム(6779m)乙女の峯
マカルー峰(8,463m)
露店市場、品物はほとんどが人の手でチベットからヒマラヤ山脈を越えてくる
お祭りの風景
【4日目 ナムチェ(3,440m) ~ タンボチェ(3,867m) 歩行6時間】
徳島の40代男性がここでリタイヤ、ヘリでポーター付き添いで下山、登山は初心者
で生き方を変えたいので会社を辞めてのチャレンジだったようでした。
高山病予防のため、お酒はこれより禁酒
こんな立派な寺院がある(中庭があり、かなり広い)資材運搬、今はヘリですね、
【5日目 タンボチェ(3,867m) ~ ディンポチェ(4,040m)歩行6時間】
学校 後方タムセルク峰(6,623m)
民家
【6日目ディンボチェ(4,040m) 高度順応のため滞在
チュクン川沿いの畑の中の民家の風景
【7日目 ディンボチェ(4,040m)~ ロブチェ(4,930m)歩行5時間】
タムセルク峰(6,623m)
【8日目 ロブチェ(4,930m)~ ゴラクシェッブ(5,100m)歩行4時間】
ここで1人高山病のためポーター付き添いで下山(これで棄権2人目)頂上まで
後 445m残念酸素ボンベイに助けれなんかもちこたえる。
元気のある人はもうひと頑張りベースキャンプを見学
【9日目 ”いざ” 頂上アタック
ゴラクシェッブ(5,100m)~カラパタール(5,545m)登頂 ~ ロプチェ
(4,930m) 歩行7時間】
顔をよく見てください。”色男” いやいや膨れ具合です。山の頂上でお菓子の袋が
パンパンになったことがあるでしょう。
頂上西側の眺望
頂上東側の眺望
【10日目ロプチェ(4,930m)~ ペレチェ 歩行5時間】
【11日目】カンデカ峰(標高6,700m)右端
真っ赤に染まったエベレスト(左奥)とローツェ(右)
【12日目 デボチェ ~ ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)泊】
3年前の当時、ヒマラヤ観光開発(株)のエベレスト街道のツアは『憧れのホテル・エベレストビューに泊まる』をキャッチフレーズにしていました。
私どものパーティも下山途中、600m登り返しで寄り道をしての宿泊した。
外観はシティホテル並でそれなりに自然との調和は配慮されてはいるがヒマラヤの山奥には全く見かけない近代的な建物に驚らかせられました。
そしてその絶景は評判通り、エベレストをはじめローツェ、アダムプラム等ヒマラヤの名峰のパノラマが眼前に迫って来るすごい迫力。
ただ内部もシティホテル並のではあるが燃料事情により、エアコンは可動せづ、石油ストーブ、バスルームはお湯は出ず、バケツのお湯で体を拭く程度でした。(オーナー及び設計者の計画と現実のギャップには苦笑い)
石油ストーブだけの寒い大食堂は残念ながら期待はずれでしたがここで幸運にも、このホテルの設計者の遺族とその関係者の日本人グループに会い思い出話に入れてもらい楽しい時間でした。
設計者はオーナーの宮原巍氏(追って記載)とは若き日の登山仲間との事でした。
女性のお孫さんや大学の後輩等を含めた総勢10人で『弔い記念登山』とて来たとの事でした。この人たちにとって48年前に標高3880mのヒマラヤの山奥にヘリポート付のホテル建設の功績は大きな自慢の評価なのでしょう。
資材を人力で運搬し建設したと言う。
大食堂の窓越しにエベレスト(中央)、アマダプラム(右)の眺望(写真他より引用)
【13日目ホテル・エベレスト・ビュー(3,880m)~ バクディン】
【14日目バクディン(2,652m)~ルクラ到着 】
無事帰還を祝ってのサーダー(現地人のリーダー)との記念写真(満足の笑顔)
下山後ルクラで全員で打ち上げパーティ(ロッジの部屋を貸し切って)、食べ物、登山用具等の残り物をシェルパ、ポーター等にプレゼント、歌あり、酒あり、見よう見まねの現地の踊り、ドンチャン騒ぎ、会費5,000ルピー(1万円)
【エベレストにまつわる3人の化け物の話】
年末本文の編集をしている時偶然にも『南谷真鈴』出演のテレビ番組をみました。
今年の5月『日本人女性の最年少エベレスト登頂』、7大陸最高峰制覇の偉業、早稲田大学の2年生19歳、少々大柄であるがなかなかの可愛い子ちゃん、彼女曰く『私はプロの登山家ではありません、趣味の延長上で登っています』そこには『頑張り感、誇示感、生活感、悲壮感』等感じさせない飄々とした話しぶり、もう1人は『80歳でエベレスト登頂の偉業』成功した、三浦雄一郎の話。御神輿にかつがれた様な登頂、頂上からヘリでの下山等、あれでも登山家と登山家野口健に揶揄されながらの偉業。いずれにしろ凄い、化け物2人ですね。
そういえばこのカラパタール山行の時、三浦雄一郎が75歳エベレスト登頂チャレンジや、北京オリンピックの聖火がネパールからエベレストを超えチベットへ運ぶ計画が話題になっていました。
『3人目の化け物はこのトレッキングで会った宮原巍(たかし)の話』
下記の文章は図書紹介で5年前にやまびこに記載されたものを1部編集しました。
ヒマラヤのドン・キホーテ 著者 根深誠
ネパール人になった日本人・宮原巍(たかし)の挑戦
『カラパタールトレッキング』下山後ネパールの主都カトマンズの『ホテルヒマラヤ』のロビーで仲間と雑談をしている時にサンダル履きで、ふだん着の日本人らしき1人の老人が話しかけてきた、その人がこのホテルのオーナーであり、また『ホテル・エベレスト・ビュー』『ヒマラヤ観光開発(株)』のオーナーでもある、この物語の主人公の宮原巍であった。
世界一の標高地で、エベレストの絶景地3,880mに建つ『ホテル・エベレスト・ュー』建設の話、今ではホテルには自力では行けず馬で行く話(ルクラから往復4日)、還暦でエベレスト登頂に挑んだ話、そしてネパールに帰化して、国会議員に挑戦すると言う話を熱く語ってくれた。
ダークダックスの『山男の唄』で知られている第一次登山ブームの頃、日大の山岳部に所属し、山にのめり込み、そしてヒマラヤに憧れ、夢叶え30歳代でネパールに永住することになる。そして今度はネパールに帰化して、国会議員に立候補、落選。ましてや74歳の今にして今後も、国会議員に立候補は続けると云う。
山に憑かれた破天荒人生、まさにドン・キホーテの世界でしょう。
この本は言うなれば『宮原巍の自叙伝』であるが何故か山岳作家の根深誠が著者である。さすがにプロの作家であり、インタービュー形式なので結構読み易いです。
(白井市立図書館にはありました)
今の宮原巍の近況
81歳になった今も健在でエベレスト・ビュー、カトマンズのホテルに続いてワールド航空サービスの支援を受け3つ目のホテル『ホテル・アンナプルナ・ビュー』を建設中で地震で遅れ現在内装工事中。アンナプルナ連峰、マナスル等の絶景地との事。
【参考:エベレスト街道のトレッキングコースのマップ】
インカ道トレッキング空中都市マチュピチュ遺跡へ
思い出の山旅その1『東葛山の会40周年記念誌:道しるべ』の続きです..猪狩晃一
『インカ道トレッキング空中都市マチュピチュ遺跡へ』
(歩行距離 43km 3泊4日)
インカ帝国の古代首都クスコ(標高3400m)から古代インカ道をテント泊
登山者 8人、ポーター13人、添乗員1人の総勢22人インカの歴史を辿る
マチュピチュへの山旅
【インカ帝国とは】比較的新しく15世紀半から16半世紀(室町時
代)に 隆盛を誇ったが21人(他説170人)のスペイン軍に侵略
され滅亡、『石と焼成レンガの文化に優れていたが』『文字と鉄
(武器等)』を 持たなかったと言う。
【空中都市マチュピチュ遺跡とは】
スペイン軍の侵略を逃れ(他説あり)アンデスの奥地の隠れた断
崖絶壁の頂 に何故このような集落を創ったか!全体が石造りでそ
の石はどこから運ばれ たか!
『その技術は・インフラは・そしてその生活は・文明とは』
“謎・謎・謎”
インカ帝国の首都クスコから直線で北西70km位置し、総面積
5000㎡麓から標高差400mの所に600年前の石の建造物の 遺
跡である。その石造りの技術は現代でも通用する。、創造を絶
すする困難な作業そしてその壮大な風景は見る者を圧倒する。
1911年アメリカの歴史学者(インディジョーンズのモデル)が
発見するまでの 4世紀近く人の目にさらされる事のなかった非
常にまれた幸運な遺跡でもある。
* 崇められていた太陽の神に近い高地あること、王族の避暑地
と言う説もあり,最大750人位までが生活が可能であったよ
うである。また侵略から 逃れるために低い位置(裾野)から
見えない隠れ砦でもある。
* 40段の段々畑で農作物が栽培されたと言われている。飲み水
の水源は当地にあり、作物用には雨水を貯めたようである。
われています。
【ツア名】『インカ道トレッキングとワイナピチュ登頂10日間』
(2007年6月)
【インカ道トレッキングとは】インカ帝国時代に『偉大なる道』
呼ばれ、エクアドルからチリまであったが今回のトレッキング
はクスコから、 峠3つ(4200m、3950m、3670m)を超え、
全長43km、古代の中継地8か所 の遺跡を巡り『ゴールは
秘密の都市マチュピチュ】へ、3泊4日のテント泊 の旅
(1日行程:10km~12km、6時間~8時間、標高差600m
~1200m) 国立公園に指定され、入場料を払っての現地ガ
イドの案内、入場制限もある。
【気候】この地は4月から10月は乾季であり、雨は降らず、好天
が続きが 紫外線が強く、昼は20度位で夜は氷点下まで冷え込
む時もある。空気の澄んだ満天の星空は素晴らく、星も大きく
近くに感じられた。道すがら見たこともない不思議な高山植物
が多く、驚き、楽しませてくれた。
【食事は】:持参した食材を料理班のポーターが料理、我々は上げ
膳据え膳である。
朝食:おかゆ
昼食:コーンスープ、サラダ、たら焼き、ケーキ
夜食:かぼちゃのスープ、サラダ、チキン料理
その他日替わりメニューで肉類、魚料理あり。
上記は1日のメニューの例である、さほどおいしいとは言えなか
ったが腹が 空くのでそれなり食べれました。中には香辛料が強
過ぎ、まったく口に 出来ず、苦しんでいた人もいました。
【ポーターとは・炊事・便所】13人のポーターはテントから食材、
そして登山者の荷物を 運び炊事をしてくれる。便所は穴を掘り、
運んで来た便座を置き、それ用のテントを 張る使用後は埋めて
終わり。サーダー(リーダー)は日本に5年間出稼ぎで建築現場
で働いていたこと
から日本語が堪能でインカの歴史、草花に詳しかった。
【インカ道3泊4日のトレッキングマップ:ルート黄色線】
マチュピチュの全景像(他より引用)
スタート地点クスコ観光(インカ帝国の首都)
公園に出没したコンドル(全長約1m)写真は借り物
【1日目】 いよいよインカ道トレッキングの始まり、クスコから
スタート地点ウルバンバ(2700m)車で移動、そこで案内人
・世話役のホーター達と合流。
(徒歩5時間、10km、標高差400m、テント泊)
アンデス山脈ベロニカ峰(5800m)の眺望とインカ道
民家の風景(2日目からは民家はなかった)
中継地点としての古代インカの遺跡
【2日目】
トレックング中1番きつい『ワルミワニュスカ峠(4200m)』超え、
冠雪のアンデス山脈のワカウィルカ峯(5800m)はやけに近くて
美しい光景に感動。
(徒歩 8時間、11km、標高差登り1200m、下り700m、テント泊)
戯れるアルパカ
手前の人影郡『”さあ””さあ”おひかいなさって』
【高山病】:標高と疲労が加わり65歳の女性が急におしゃべりが
止まらなく、嫌がる仲間にやたら声をかけ、中身の無い
大声の掛け声に皆は逃げるが追い打ちをかける。
ハイになるのも高山病の表情の1つとのことでした。
下山が進むとただちに回復。標高4,200mの峠には留まらず
超えるだけだったのでこの程度で済んだようだ。
【3日目】
第2峠標高3950mを超え、そして第3峠3670mを登る苦しい
行程であったがルンクラカイ遺跡とサヤクマルカの遺跡の見学
が見どころであった。
(徒歩 7時間、11km、累計標高差1200m、テント泊)
インカ帝国の遺跡
我々の荷物を背負ったポーターと石畳みのインカ道そしてアンデス山脈の眺望
テント泊 2・3人用
4日目
ブユバタマルカ遺跡、ウィニャイワイナ遺跡をを見学、いよいよ
マチュピチェ遺跡へ
(徒歩 7時間、10km、下り標高差1500m、4日ぶりの入浴・ホテル泊)
正面玄関の『太陽の門』を通り、麓やルートからも全くその姿を見せなかった
隠れ砦『マチュピチェ遺跡』がいきなりに眼前に広がる。
【物売りの子供】途上国にはつきもので、つづら折れの観光バス道に垂直の
近道の歩道があり、子供たちはその道を先回りをして同じ観
光バスの窓で同じ客に何度もせがむ『押し売りの名所』とな
っいる。
農作物の栽培に利用されたと考えられる段々畑を通ってマチュピチェ遺跡へ
マチュピチェ遺跡全景
正面がワイナピチュ(山)
2階建ての部分が1ケ所だけある
【インカ道の高山植物】
高山植物の宝庫であり、野生のラン科が多いとのこと。日本には
無い異様な形、色合い、種類も多くドキドキの連続。花の名前は
図書館等で調べたが難しかったのであきらめた。
1917年野内与吉は契約移民としてペルーに渡り、地元の国鉄に勤め、
日本で学んだノウハウを活かし、村の発展に貢献、事業にも成功した
と云う。マチュピチュは温泉地としても有名であり、日本人観光客に
人気スポットであるが日本の温泉とは違い野外の温泉プールに水着で
入る様のもの。それでも我々のように登山後の入浴は極楽気分であった。
街の雰囲気が日本の温泉街似ていると云う、言われてみれば、
そんな感じもしないでもなかったかな!
その温泉を最初に造ったのは野内与吉だったとのこと。
2011年の震災の後大玉村はマチュピチュと友好都市を結び村の
ホームページのアクセスは1日2,000件を超える位の盛り上がりがある
と云う
金時山ハイキング
日時 12月3日 メンバー 12名
コース 金時神社入口~金時神社分岐~金時山山頂~長尾山~乙女峠
~乙女峠バス停・・・温泉会館(入浴)
東武鎌ヶ谷に集合したメンバーと船橋駅で合流し新宿へ向かい新しい新宿バスターミナルから小田急の箱根線バスに乗り一路箱根へ。 バスは乙女峠を過ぎて金時神社入口で下車、神社で支度を整え、ハイキングの開始です。
金時神社にて
歩きは快調で山頂までは何事もなく予定通り到着。
山頂に向け快調に歩く
山頂についてみるとハイカーであふれるばかり座るところも無い有様です。それでも何とか場所を確保し昼食タイム。
山頂での昼食タイム
金時娘ならぬ金時ばーちゃんは今日はいるのかなと茶屋を覗いて見ましたが不在。金時ばーちゃんも見ることが出来ずに多少がっかりでした。
茶屋の中も人出大混雑
それでは景色をと周りを見渡して見ると、天気予報では快晴の登山日和でしたが、山頂では雲が出て富士山も頭がすっぽりと隠れて良いところなしでした。 取り敢えず山頂での記念写真を撮りましたが富士山は頭が隠れてちょっと残念!
山頂にて
混み合った山頂を後にして下山を始めると途中で雲が切れて雄大な富士山を見る事ができました。
下山途中で見た富士山
乙女峠まで下山してバスで温泉会館へ、そこで入浴ののち新宿へ向かいました。
本日の山行めでたく終了です。 ”めでたし、めでたし!”
焼岳登山
2016年9月9日~10日 (1泊2日)
メンバー 6名
1日目 新宿駅に11時前に到着出発ホームに行くとメンバーが集まって自由席の乗車口にならんでいた。私も一緒になり予定通り11時に出発。松本駅で14:45分の送迎バスに乗り中の湯温泉に到着。中の湯温泉旅館、山の中の一軒宿ですが奇麗で中々良い旅館です。早速部屋で荷物を置き温泉へ! 浴槽に浸かり正面の景色を見ると右に前穂、中央に奥穂という素晴らしい景観です。
宿の湯ぶねから見る夕暮れの穂高の山々
夕日に映える穂高の山々を見ながらゆったりとした時間をすごす。夕食を採り明日の準備をして就寝。
2日目 朝食をとり、もう一人のメンバ^-と合流、7:30に中の湯温泉を出発する天気は快晴、宿のわきの道をゆくとすぐに中の湯新道の登山口にでる。 樹林帯をゆっくり登り黙々と高度を稼いでいく。2時間弱で下堀沢との出合にでる。(9:20)
下堀沢から見上げる焼岳
階段やはしごなどを歩きやがて大小の岩だらけの道になり噴煙も見えてくる。頂上も間近になる。
焼岳南峰の火口
南峰は立ち入り禁止のため北峰に登頂。天気は快晴。360度の景観を楽しむ。
山頂にて記念写真
山頂湖
山頂より見る北の山々
昼食をとり下山する。中の湯温泉14:15に到着。
温泉に浸かり、さっぱりしてタクシーで松本駅に出て夕食を軽く摂り17:18分のあずさ30号に乗車、帰宅へ。
初秋の八海山
初秋の八海山
日程 9/10 鎌ヶ谷大仏5:45 上野7:06(新幹線) 六日町8:34 八海山ロープウエイ9:50
千本檜小屋13:00
9/11 千本檜小屋7:00 復路を戻る。
今頃の八海山は山頂から眺めると、「黄金色でパッチワークの風景だよ 」と、言われる。
初めての山なので心が動きました。それに11日が私のバースディを兼ねての山行きでした。
八海山神社は中世以来、越後有数の信仰の山として開け、10月には裸足で火の上を歩く火渡り大祭が行われる。
我々はじいちゃん、ばあちゃんの軟弱?グループ故、一気に4合目までロープウエイで運んでもらう。
ロープウエイの前の八海山大神から歩き出しました。
まだ、観光シーズンには早く登る人も少なく、ゆっくり、ゆっくり登る。
六合目の女人堂です。ここでカフェ「やすだ」の美味しいコーヒーでお昼にしました。
檜小屋に荷物を置いて、不動岳、地蔵岳まで行きました。その先の怖い八ツ峰は眺めただけでした。
後ろで見つめる余裕の熟女たち。
小屋の前で老いも、若きの人たちにも祝って頂きました。 今宵の宿、九合目の千本檜小屋です。泣けるほど嬉しく幸せの一時でした。
小屋の前にドーンと聳える越後駒ヶ岳。大きいね。 色づいたナナカマド
左の丸く下がった所まで行ったんだよね。怖かったね。
と、言いながら振り返っている、元気なばーちゃん達。
1本紅葉していました。
八ヶ岳集中登山(赤岳鉱泉編)
日程 8/28~8/29
8/28 14:30 赤岳鉱泉集合の集中登山多少の遅れのある班も
ありましたが無事全員が到着、夕食までの時間を入浴やビールを
飲みながらの談笑と皆思い思いの時間を過ごし、夕方揃っての
集合写真の撮影。
撮影が終わると間もなく夕食会が始まった。
みんな疲れた様子もなく、食事会の始まり料理はメインが
ステーキ等、豪勢なメニューで、ワイン付きでした。
会長のあいさつもそこそこに早くも酔いが回り皆、饒舌になり
和気あいあいの内に食事は終了。
楽しい時間でした。
その後は別室に集まり2次会、そこで各班の山行報告を
行いました。 山行談議に花が咲きました。
翌日の予定と朝食の時間を打ち合わせ、解散・・・9時消灯
翌日は各々が美濃戸まで歩き再度集合。
暫く待つと迎えのバスが到着
18:30 新鎌ヶ谷駅前に到着。 40周年記念の八ヶ岳集中登山
も無事終了しました。
八ヶ岳集中登山(11班)
八ヶ岳集中登山(11班)
日程 8/27-8/29(2泊3日)
コース 茅野ー美濃戸・・登山口・・行者小屋(泊)
行者小屋・・中岳のコル・・阿弥陀岳・・中岳のコル・・赤岳・・展望荘
・・地蔵尾根・・行者小屋・・赤岳鉱泉(泊)
(12組のパーティ35人が8/28の14:30までに各々のコースで赤岳鉱泉に集合する
企画です。)
8/27 朝、船橋よりあずさ3号に乗り茅野駅に到着すると予報通り雨でした。
茅野駅でメンバーと落合い、美濃戸行きのバスに乗り終点美濃戸で下車、雨支度を整え行者小屋に向け出発です。
行者小屋までは雨でも苦労もなくたどり着くと思っていたのですが、夏の雨は雨具の蒸し暑さとの闘いでした。Tさんなどは雨具を着ずに傘で歩いていましたが、風も無く、しとしとと降る雨には傘が正解でした。私などは行者小屋近くで雨具のフードを被ると、暑さと蒸れで頭が朦朧としてきました。最近、感じる事ですが私はどうも暑さには弱い体質のようです。それでも何とか行者小屋に到着、あとはお決まりの生ビールで一息つくと、明日の予定を6:30出発と決め早めの就寝となりました。
8/28朝起きると、天気は快晴,絶好の登山日和です。朝食の後、急ぎ出発します。途中,鹿の親子に遭遇したりしながら中岳のコルに到着。
中岳のコルから見上げる阿弥陀岳は急峻な岩場を越えたところに山頂がみえます。内心これは大変そうだなと少し憂鬱な気持ちになりましたが、気を取り直し登り始めると下から見上げた時より楽に登れた様に思います。
岩場が終わり山頂に出ると風景がぱっと開けて素晴らしい景観に出会いました。前日降った雨の影響か、雲海に浮かぶ山並みが迫力があり見たことのないような景観でした。
休憩の後、山頂の景観を惜しみながら赤岳に向けて出発、阿弥陀岳の下りは、かなり大変な下りで、浮石も多く落石を起こさない様にかなり神経も使う下山となりました。
20分程で中岳のコルに到着、赤岳を望むとジグザグのガレ場ののぼりが続きその先に急峻な岩場から山頂へと登っています。
ゆるりと中岳のコルを下山しガレ場を赤岳山頂に向けてジグザグに登る。
途中で他班のメンバー2組と出会う。赤岳鉱泉で再開を約して先を急ぐ。
赤岳山頂に到着。
すでにガスが出て視界は今一つですがとりあえず今回の予定の2座は終了です。
赤岳展望荘を下った所で転落事故があったようで岩場に血糊が大きく付いていました。我々も気を引き締めて急がずに確実に下山を続け行者小屋に到着!
預けておいた荷物を引き取り赤岳鉱泉に向かい無事到着。
取り敢えず風呂につかり生ビールを飲みながら他メンバーの到着をまちました。
事故もなく無事の到着に乾杯です。